月の裏側を見てみたい。

「札幌の家庭教師ポプラ工房」共同代表 横山の雑記

やってみます。をいえる世界に。

さまざまな学校の先生と話をしたり、
ご家庭と話をしたり、
日々、思うのは、

学校の評価制度がクソだ!
・・すみません。言葉汚くて。

先人たちの試行錯誤の末に、つくられてきた制度なのかもしれないけれども
子どもたち、親たち、が苦しんでいる様子が伝わる。

加えて、成績をつける側の先生たちも、頭を悩ませる姿が目に浮かぶ。

制度について、
文句を言っていても仕方が無いことであろう。

ん?なんだろう。この感覚。何かとすこし似ているな。
そうおもって、しばし考えてみた。

キャリアコンサルタント時代の転職相談に実はよく似ていることを思い出した。

「現状に不満(おおむね人間関係だ)」なのと、
「とても不安だ(経営方針が不透明)」ということが、

ただし、ほとんどが、自身のことは脇においておいて、
周囲に原因をもとめている。
そして、また他人に頼ろう(だから相談にくる)としている。

その傾向が見られたときは、
基本的に転職を勧めてこなかった。
(売上げ目標は厳しかったけど)

まず、このようなアドバイスをしていた。

人間関係改善に、どれだけ取り組んだか。組織改善に対し何らかの提案をしてきているか?まだやっていないことがあるならば、それにまず取り組んでほしい。向き合ってほしい。どうせ辞めようとおもっている会社なら、人目を気にせず、思い切っていろいろなことをやってみるといい。

そういうことを伝えると、
「無理です。」

という。
無理かどうかを試してみないのに、無理だという人のいかに多いことか。

実際に、やらなくても、考えたかどうか。
それだけで今までの自分と違う。はずだ。

脳みその中に、
今までと違うアイデアや思考が刷り込まれることで
今までと違う自分となる。

だから、無理だという言葉は聞きたくないし、言わせたくない。

一方、
「わかりました。やってみます。」という言葉がでてきた人たちは、
よい転職をしていった。
転職をする前に、まず、できることに取り組んでみる。
この姿勢で

わかりました。やってみます。

この言葉が、
いえているかどうか?

この言葉を言えるように、周囲が環境をつくっているか?
やってみますの一言は、勇気がいるのだ。
失敗は怖い。周囲の目も気になる。

部下が、やってみます。といえないのなら、
これは、上司は考え方をあらためるほうがいいだろう。
子どもが、やってみよう。といえないのなら、
親が、どのように接してきたか?すこし見つめても良いかもしれない。

もし、指導的、支援的な立場にいるなら、自分の目の前から
「無理です」が
聞こえたら、自分のあり方をすこし見つめなおしてほしい。

そして、かすかに、
なにかやってみよう。
という言葉がでてきたら、アクションがでてきたら、
それをつぶさず、大切にみまもって、最大の支援者となってほしいと思う。

今ある、クソみたいな制度、システムの中で、
なにか、かすかにでも「やってみたい」ことがあるなら、
応援しあえる人間関係を増やして生きたい。
そんな世界を一歩ずつでも作っていきたい。

正常化の偏見

先日、
「防災」に関する講演会を、お世話になっている人たちと企画してお手伝いをした。

近い将来、起こるであろう(専門家は必ず起こると発言している)
関東直下型の大地震について、
札幌がどのような役割を果たすことができるのか?

そのような話がテーマだった。

そこで、
「正常化の偏見」という言葉を学んだ。

「目の前に危険が迫ってくるまで、その危険を認めようとしない人間の心理傾向」
とのこと。

防災がテーマだったにもかかわらず、
その言葉を聴いた瞬間に、自分自身の
過去の様々な行動、失敗にたいして、
見逃していたサインが次々と思い起こさせられた。

そして、ここに来て、離婚を経験した時のことを思い出すとは・・・・。
もう、数年も経過しているし、
日常生活に何かあるわけではないけど、
大きな傷を自分が負ったに違いない。そして、家族にも負わせてしまった。

今でこそ、不要に自分を責めることはなくなったけれども、
なるべくして、なったのだと
必然の出来事して受け入れるには大きすぎる。

そう考えると、
自分自身を振り返ってみると、
人生の大きな転換期には、なにか「バイアス」がかかったていたりする。

「こいつ、こんなことするはず無いよな。」

とおもっていた相手に、ひどい仕打ちをうけたりしたこともフラッシュバックをする。
ほんの一言、「正常化の偏見(正常化のバイアス)」という言葉を聴いたばかりに。

人間は、そのような心理に陥りやすいこと。
それがわかっているのであれば、
事前に、その対策をある程度打てるのではないだろうか?
企業への教育研修、学習指導にも生かせる側面があるのではないだろうか?

自身におきる不要なリスクを事前に察知する
責任回避が蔓延しているような世の中で、

実はあわせて、「自分は大丈夫。」という正常化の偏見もある。

世の中っていうのは面白い。

正常化の偏見と責任回避をキーワードにした
プログラムを
創ってみるか。

失敗の分析

おなじような失敗を繰り返すので、
そこをよく見ていると、
そもそものルールを理解していないということにたどり着くことがある。

仕事でも、
勉強でも、


間違いを繰り返す→苦手意識→遠のく。

そんなことが良くあるので、
そばにいる人たちは、
間違いを責めるのではなく、
そこに至る過程をもっと観察したほうがよい。



君を待っている人がいる。

先週は、めまぐるしく状況が変わり
多くの学びがあった。

(学びがあったという言葉は遠まわしで、
いやなことばっかりあったという意味も含むことがあることも
社会人になってしばらくしてから聞いた。)

そうはいっても
楽しいこともいっぱいあって
その一つに
中学校で道徳の講座を特別に2時間受け持った。

命をテーマに
話してほしい。ということ。

講義の一週間前に、先生を通じて事前にアンケートをお願いした。

「命と聞いて連想する言葉を三つ書いてください。」

生きる。大切。愛。などなど

もう、十分、子どもたちは命を大切にしなきゃいけない。
そういう観念的なものは捕らえられている。
のではなかろうか?そんな事が、伝わってきた。

さて、そこに命を大切にしようという講義の組み立てをしても
本当に伝わるのだろうか?

先生と打ち合わせをして、
今を生きる

人間が人間として生きている意味を考えてほしい。

そういうテーマにしてみた。

当初は、人間と動物の違いと人間の可能性を語ろうとおもっていたのだけど、
授業の準備を進めていくうちに

今を生きてるし、生きているだけでいいじゃんか。
とおもってきた。

ただ。
どうしても伝えたいことがあった。

※ほとんどのことは思い通りになんてならない。だからそれを楽しもう。
※どんなひとにも役割があってそれを待っている人がいる。

伝わらないかもしれないけど、
君を待っている人がいる。

これをわかってくれたら
「いつ出会うかわからない、その人のために今を生きる人」


増えてれたらいいな。
そうおもって
話を結んだ。

素敵な出会いや、出来事があったとき、
あぁ。あのときの自分の痛い思いは、
このときのためにあったんだ。

最近は、そう思えるときも増えてきた。
相変わらず、学びのときばかりだけど。








 

 

 

憎しみの連鎖と愛の間

連日
メディアはパリでのテロ関連ニュースを報じている。

未だに僕は何が起きたか詳しくわかっていない。ニュースを追いかける暇もないし、読んでもいないのにこの手のニュースはもうお腹いっぱいな気がしている。
そして、これだけ情報が溢れると知りたいニュースに辿り着く方が難しい。

SNSもあるから様々な人が様々な立場でものをいう。まるでそれが、戦場を変えた血を流さない戦争のようだ。

僕は知っている。「痛み」を感じる場所は心の痛みも、身体の痛みも同じという事を。

愛とはなんですか?

たまに聞かれることがある。
「よくわからないけど、大切に大切にしたい気持ち」
と伝えることにしている。
大切にする気持ちは、自分の考えをおしつけることじゃない。
あなたの事が大切。という事を押しつけてもらうことでもないと思う。

こんなに愛しているのに…リターンを期待するのは相手を大切にしているのだろうか?

大切なものを突然奪われたら、奪いかえすようになるだろうか?
自分にとって大切ではないもの、だけどその人にとっては大切なものを奪い取って、心ががスッキリするだろうか?

心が行ったり来たりしている。









努力の先に夢が叶う?


20代のころ
自己啓発本に夢中になった。

仕事が、なかなか思い通りにならず
出張するたびに、
ライトなタッチで書かれている自己啓発本を手に取り
移動の最中にずいぶんと読んだ。

数年たって、
知識は増えたかもしれないが、
なかなか生活に変化が無い(いやむしろ状況は苦しくなっている?)
自分がいた。

努力すれば夢がかなう。
今の自分は過去の自分が作っている。
人は変えられないが自分は変えられる。

いろいろなキャッチフレーズがあり、
実際そのとおりなのだと思う。

ときどき、
自己啓発本の受け売りのようなことを
伝えている人がいる。
これは、ちょっと厄介な気がする。

自己啓発本の内容と比較して
他人の否定をしてしまう。
親子であればもっとその子どもはつらいだろうと思う。

あなたの努力がたりないから、今の自分があるのだ。

そんな必要は無いとおもう。
オトナでも、コドモでも
その存在と価値を認めてもらえれば
さまざまな場で活躍をする。
気づきは自分で気づいていくものだ。

自己啓発の内容は、
せめて自分にとどめておくといい。
他人に押し付けるためのものではない。

自己が他人に向かうと事故になる。

カミングアウト

深夜、と言うより明け方。

北海道から遠いところに住む友人が、
同性のパートナーと
結婚し、
かつ
新しい命を迎える準備をしている報告をFacebookで読んだ。
突然、思い立ったように札幌から拠点を移した彼女のこと、およそ一週間前に、別の友人と、どうしているのかな?
と話題にしていたところだった。
びっくりはしたが、その移住の理由も書いてあって、なるほどと腑に落ちた。

その子の笑顔は
いつも誰にも負けないくらい素敵で、
輝いていた。

彼女にそんな秘密があったとは知らなかったけど、
その告白を読んだ時、
彼女らしいな。
と思うと同時に、
切なく、そして爽やかな気持ちになった。
彼女と出会った頃、
僕自身にも、苦しい出来事がのしかかっている時期だったので、
彼女の笑顔には随分励まされたものだった。

カミングアウトの背景には、
自分自身の告白で
勇気を少しでも持ってくれる人がいたら
という思いも綴られていた。

自分のことをもっと知って欲しいのに、価値観の違いから誤解されたり、
逆に人を傷つけたり。
そんな事で苦しむ人たちは案外多い。(割合としては少ないかもしれないけど)

勇気もらったよ。
少なくとも僕は。