月の裏側を見てみたい。

「札幌の家庭教師ポプラ工房」共同代表 横山の雑記

計算を早くするために

昔から
計算が苦手だった。

未だに、
引き算をするときに、
隣から1借りてきてー。
とか呟いてしまう。

そんな僕が、
いろいろ考えた。
よく出てくるものは覚えてしまうという事しか思いつかなかった。

どうも、最近、
勉強を教えていて、
僕なんかよりずっと計算が早いのに、
答えを出すのが遅い子
が増えてきている気がする。

塾に行っている子
当たり前のように覚えている事柄が、
知らされていない。
ということで、
もし、計算が苦手という人がいたらちょっと採用してみて欲しい。

0.5は2分の1
0.25は4分の1
0.125は8分の1
0.75は4分の3

5をかけるときは、10倍して半分にすると簡単なことがある

9をかけるときは、10倍して、かけられる数を引く。

5でわるときは、2倍してから1桁小さくする。

3と6と9は仲間なので、通分のときに工夫する。

11×11=121

16×16=256

など。








クリスマスイヴ

今日はクリスマスイヴ

40年以上生きていれば、
いろいろなクリスマスの想い出もそれなりにあるのだけども。
(もちろん楽しい想い出ばかりじゃないのだ)
せっかくなので、
クリスマスプレゼントのことを・・。
なぜ、クリスマスに、プレゼント交換をするようになったのか?

イエス・キリストの誕生日であることは
よく知られたところで、
一応、クリスチャンだからお伝えさせてもらうと、

この世に、
大切なものが神様から
贈られた。
そのプレゼントが、イエス・キリストだった。
ということ。

自分自身では何もできない赤ん坊の姿
(完全じゃなく、とても手がかかる。)
で、この世に送られたプレゼントということだ。
それが、プレゼント交換の風習につながった。
ということらしい。

さて、
神様からみんなに贈られたプレゼントというのは、
本当に、イエス・キリストだけなのかな。

そんなことも考えてみた。

ポプラ工房の代表、山岸が、
会社設立のときに言っていた言葉を思い出す。
「人がそれぞれ与えられたギフトを生かすことができるような世の中にしたい。」
たしかそんなことをいっていたような気がする。

イエス・キリストは、
この世に、送られたプレゼントなのだと思う。
でも、
みんな、一人ひとりが、
この世に送られたプレゼント。
なのだ。

あの人も、あの人も。
僕が、苦手なあの人も。腹立たしいあの人も。

誰もが、
何もできない。頼るしかできない。
赤ん坊で生まれてくる。

一つ一つの命が、プレゼントで、
そして、そのプレゼントにも、プレゼントが与えられている。

普段は、だめだめな自分だけど、
今日だけは、そんな風に、ちょっと静かな時間をもって

世界中と、僕自身に
与えられたプレゼントのことを
考える時間を持とうと思う。



できない自分

いやな自分、できない自分をみつめてみた。

部屋の片付けができない
時間を守ることができない
約束をときどき忘れちゃう
よくまちがえること
早とちりすること
ここぞというときについ手を抜くこと
素直になれないこと
人をきずつけること
人を見下すこと
卑屈になること
人を疑ってしまうこと

かきだすと本当にいやになってくる。

自分にこういう思いが強いと
ひとが、どれだけ自分のことを
良く言ってくれて
どうしてもうそ臭く思え、
「あなたがいっていることは違うよ。
本当の自分は、こんなにだめだめなのだから。」

そうおもってしまう。

だから、
巷であふれかえっている
「怒るより褒める」
みたいな教育法にはちょっとした疑問を感じている。

褒められても、裏があるのではないか?
そうひねくれる自分がいる。

勉強のできない子
うまく周りと仲良くできない子。
学校に行けない子。

自分で負い目を感じているならば、
良いところを見つけて褒めたところで
あまり効果が無いのではないだろうか?
と考えている。

彼らは、勉強ができないのではなく、しないのかもしれないし、
仲良くできないのではなく仲良くしないのかもしれないし、
学校に行けないのではなく、行かないのかもしれないから、

学校に行けなくても、あなたは優しいよね。
そんな風に子どもにむけて投げかけても、
あんまりこころに伝わらないのではないかなと思う。

では、どうしたら良いのか?

わからない。

だから、できることを探すために
知ることからはじめることにしている。








想像力

現代の子たちは想像力が欠けているのでは?

そのような話を聞いた。

はたしてどうだろうか?

まずは自分自身について考えてみた。
子どもの頃突然、家が火事になってしまうのではないか?
不安で不安で眠れなくなった事があり、その晩の事を未だに覚えている。

いまの子はいわれのない不安に襲われたりする事はないのだろうか?

まだ、叶ってはいないが、ペンションのオヤジさんになって周りに友達がいっぱいいる。そんな姿を想像してワクワクした。

いまの子はワクワクする事ないのだろうか?

サンタクロースが本当にいるのか?いるのならどこに住んでいるのか?世界中の子どもたちにおもちゃを届けることは一人でできるのか?

いまの子は自分なりに疑問を持ち確かめることはしないのか?

きれいなものを見て心が震えた経験。
優しさに触れて自分も人に優しくしようと思った事。
美味しいものを食べて誰かと分かち合いたいと思う事。

いまの子はないのだろうか?

そんなはずないだろうと思いたい。

目の前にいる子どもたち、
ちょっとあてはめて考えてみた。

それぞれがそれぞれの
喜怒哀楽は
十分にあるのだけど

どうも、振り返ってみると何気なく
「想像力を働かせよう」
そう指導することもある事を発見した。

それは数学の文章題。

国語よりむしろ文章題の指導の時にそんな言葉を使っていることが多い。

さて、話を最初に戻すと、どうやら最近のいわゆるゲームというものが、想像力を使う機会を奪っていると指摘されているらしい。

ここはもう少し追いかけていきたい。

エロ小説→エロ本→エロビデオ→エロ動画
人間の欲を満たすその変遷を見てきた限り、
いま、憂いるはゲームより、動画じゃないかな?なんて僕は思っているけど…。











受験生をかかえる家庭の心得。

息子が通うPTAの会合で予備校を経営する方から、先ほど聞いてきた心得。

ちょっと表現に手を加えるけど、”まさに”、と思ったので、
ここであらためて。

※家庭内で喧嘩をしない。
※親の考えを押し付けない。
※子どもの意見に耳をかたむける。
※年長者としてしりうる正確な情報を伝える。